昭和53年01月05日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神のおかげを知り、神の大恩を分からせて頂いたら、改まりもしなければおられない。磨きもしなければおられない。信心辛抱も強うならなければおられない。ということになるのじゃないでしょうかね。本当の神様の大恩を知らんから、大恩にそむくような生き方をしてしまう。神のおかげをおかげおかげと言いながら、本当のおかげを知らんから、信心が疎かになってくる。どうでも神のおかげをおかげと実感させてもらい。神の大恩をいよいよ分からせてもらう。
だからそこが信心の焦点。そこが分かればいわゆる人間も出来てくるに違いありません。いわゆる「神の機感にかのうた氏子が少ない」と仰るが。神の機感にかのうたという人が、神のおかげをおかげと知っており、神の大恩を大恩として、それを頂けれる人。そこに初めて、神の機感にかのうたということになるのじゃないでしょうか。どういう立派な事が出来たりいたしましてもね、いわゆる神の大恩を知らない。だから大恩を忘れたかのような生活をしてしまう。
神のおかげを知れば、もうそれは、本当に心の中に喜びが湧かないはずはない。あれもおかげ、これもおかげと分かってくるんですから。自然と人間も出来てまいりましょう。そうすれば、段々信頼も出来て来る。達者なおかげも頂いて来る。最後に「無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」というのが、いわゆる金光様の御信心なんです。
ただでもそこんところをこい願わないものはない。無事達者で子孫も続き身代もでき、しかもそれが、年勝り、代勝りにおかげが受けていけれるというのですから、いわゆる神の大恩も分かろうとせず、神のおかげも分かろうとしないでは、そういうおかげには繋がらないという。だから恩が分かったらどういうことになる、絶えず自分の心の中に、それに報いなければ、おられないというものが、とものうてこなければ、恩が分かったとはいえんのです。
恩に報いるという心。おかげを知れば、いうならば何時も喜びでおれれる。それだけなんですけれども、それがなかなか難しい。おかげをおかげと分かれば、喜びが切れ間がない。大恩が分かれば分かるほど、心の中にはどうかしてね、いわゆるどうぞしてその恩に報いるという心が生まれてくる。そういう意味でです、例えば合楽で合楽示現活動に参画するといったような、信心を進めておるわけです。これはどこまでもだから、恩に報いるという働きになるのです。そういう運動に参画するということね。
信心喜びの生活とおかげが分かるから、又はあれもおかげこれもおかげと分かるから、やはり喜びが湧いてくる。そこでですならそれの反対のことを言うてみると、自分達の信心がはっきり浮ぼりにされてくるわけです。自分達が恩に報いる、いうならば示現活動に、どの位の思いで参画しておるかというと、はぁ私が恩を知っておるとのがこの程度ということが分かるんじゃないでしょうか。
「あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃ」と仰るが、あれもおかげこれもおかげと実感しきらないから、何時までも本当の信者になることが出来ん。勿論本当のおかげにも繋がらないということになるです。それが段々分かってくる人達、分かってくるとです、私やはり止むに止まれぬというものが生まれてくると思うんです。ご恩に報いるということ。その止むに止まれんものが、いうなら合楽示現活動に参画させて頂くと言う様な、願いになってくる。
これはまぁ良い事か悪い事かあんまり分からんですけれども、私は毎年年賀状を出す数が少なくなっていくことを願っておる。去年まではそうですね14、5枚ぐらい書いたでしょうか。今年は一つも1枚も書きませんでした。沢山それでもやっぱり参りますけれども、本当にいわゆる謹賀新年であり、平素のご無礼であり、今年もどうぞよろしくお願いしますである。その位の好誼、ご好誼とこう申します。
お付き合いを頂くという事。ことでそんならあの人に、どうかしてやりたいと言う様な心が起こるでしょうか。あの人が年に一遍ずつ年賀状を出すからね。あぁそれになんとか答えてやりたいと言う様な心が起こるでしょうか。だからそのくらいな好誼ならばもう願わん方が良い。所謂お付き合い程度の事です。本当に信心させて頂く者がです、そういう自分の周辺のお付き合いの人達の上の事にまで、思いをよせて祈らせて頂くという、例えばおかげをおかげと分かり、大恩を恩を恩と感じて言うならば年賀状を出す。
まぁちっとも感じんわけでもなかろう。まぁお付き合いという程度でもあろうけれども、私はお互いそういう程度の信心が多いのじゃなかろうかと思います。是では神様のいうならばご神意を、子孫も続き身代も出来、一年勝りのおかげが頂けれる様な、おかげには繋がらないと思うです。だた金光様の御信者じゃと、あの人とのお付き合いがあるというだけの事。特別のいわば交流というものは感じられない。そこで段々そういう神のおかげが分かり、神の大恩が分からせて頂く為に、信心修行がいるのです。
不思議に修行が出来ておりますと、不思議にいうなら朝参りなら朝参りでもされる。なら寒い冷たい中に、まぁ飛び出してくるわけですけれども、その寒いことが冷たいことが、何とはなしに有り難い。今日はもう雨がふるから御無礼しよう。といった時代からその雨が降る、風が吹くということをその辛抱こそ、と教えて頂くから、その辛抱をし貫かせて頂いておると、普通お天気の日にお参りしたよりも、その雨がいよいよ不思議に有り難くなってくる。
もうすでに雨の有り難さが分かって来よるのであり、いうならば朝の清々しい、空気の中で朝参りをさせて頂いておる、自分が有り難いだけじゃなくて、そういう自然の働きにも、なんとはなしに、神恩の心が生まれてくる。そういう私は信心が、本気で繰り返し出来ていくところから、神の大恩がわかり、神のおかげがいよいよ克明に分かってくると思うです。話しを聞けばね、神の大恩天地の大恩。
これも神様のおかげですよと。痛いとか痒いうとかいっとるけれども、それも神様の御神願ですよというて、聞きゃ分かるんだけれども、それをおかげと実感できない。不思議に修行ができておる時には、痛い痒いのこと、苦しいということであっても、不思議に有り難いと受けられる。おかげで信心が出来ますと。いうて見れば、結局なら日々の信心修行をおこたりなく、本気でさせて頂くところから、天地の大恩も分かり、神様のおかげも、実感出来れることになってくる。
そこでその有り難いと思う心。神の大恩が分かれば、それに報いずにはおれないという心が、少しずつ育ってくる。神のおかげを分かれば、有り難いという心が育ってくる。その有り難いという心、恩に報いなければおられないというその心が、そのまま、家庭生活の上に、いうなら生活の現場で、それが現されていくということが、いうなら金光様の御信心なんで いよいよ明日から寒修行が始まります。まぁせめて寒修行の時には、ずっと心を使わせてもらう。
毎日日参が出来ておる人はそれでよいこ、それに何かちょっと自分の心がけをね、工夫させて貰う。日頃お日参りも出きないという人でも、まぁせめて寒修行中だけはというて、ならお日参りを始める。そのちょっと心がけると言う事が、私は神様に通ずると。いうならば修行の有り難さが分かると思う。そういう意味でいうならば、この修行と言う事は尊いのです。2、3日前に建築行をなさっておる方が、此の頃仕事がちょっと暇だから、まぁ仕事の上のお繰り合わせを頂くようにというて、お願いをなさった。
そしたらこの工業学校の工ですはね。大工さんの大工の工という字がそうです。カタカナのエを書くですかね。だからこれは工という工業学校の工という字。それに上にちょっとこう点を押す所を頂いた。こう書いてね。土という字になりましょうが。工という工という字に上にちょっと点を打ったら、土というじになるでしょう。お互いが色んな願いをする時にです、やはりお願いしとるからそれでよいと言う事はないです。
そすとなら工という字から、ちょっと点を打つと、土という字になる。ちょっとした心がけちょっとした修行。そこでなら神様がどういう修行を求めておられるかというと。結局本気で土の信心をせよと言っておられ、求めておられるように感じました。願い事のあるたんべんに、ちょっとした信心が分かって行く。そこに私は神様が育っていくことの、自分も有り難い、神様も喜んで下さる。その方に私はだから「自然に溶け込むことは、自然を生かすことだ」と色紙に書いて差し上げた。
土の信心とはそういうことなんです。自然に溶け込むということは、様々な神様の働きの中に溶け込むということです。それは例えば自然を生かすことになるです。神様を生き生きと、お喜び頂けれることになるのです。土の信心とは、そんな効果があるのです。土の信心それこそ黙って、黙って受けて受けて、受けぬかせて頂くという信心。そこから地味が豊かになるように、私共の心が豊かになってくるです。始めはもう本当に、ちょっとしたことなんです。
そのちょっとしたことを、今まで出来なかったことを思いつくことです。そしてそれを修行とさせてもらう。必ず心が豊かにもなってくる。そういう心でお話を頂くから、天地の大恩がいよいよ分かってくる。神の、いや神の大恩が分かってくる。神のおかげが分かってくる。それを消す事なしに、それを育てていくということが信心。そういう信心がです、自分の身に付いてしまう。土なら土の信心が、自分の身に付く。自然に溶け込むという生き方が、自分の信心の信条ともなり、血にも肉にもなってくる。
そこからいよいよ心が肥え太ってくる。心が肥え太ってくるから神の大恩を大恩、いや太ってくるからおかげも大きくなってくる。大きくなってくるから、神のおかげを大きく知ることが出来、神の大恩を又大きく感ずることが出来る。それをね積み重ねていくということがです、その精進こそがいうならば、神の機感にかのうていくというということになるのじゃないでしょうか。それをだから、中途半端にせずにそれを続けていくという信心。今日は神の大恩。又は神のおかげを分かる手立てなんです。
神の大恩が分かれば、報いる心が生まれてくる。神のおかげが分かれば、自ずと喜びが湧いてくる。そういう手立てがです、今の信心にちょっとした工夫をこらすことなんです。そこから私は神の機感にかのうた、ということは神様のお喜び頂けれるまぁ信者氏子にお取立てを頂くことになるのですね。いよいよ明日からの寒修行にはね、只今申しますような意味で何をしようするかと。剣道をする人は剣道。柔道をする人は柔道。特別その寒修行と言った様なものが確かにあるはずです。
剣道なら剣道の道が、よりいうならば体得が出来るように、修行するのでしょうもん。折角のなら明日寒修行が始まる、何のためですか。信心をさせて頂くならその信心をより、分からせて頂くことのためでなからなきゃならんのに、今度の寒修行で、一修行しておかげを頂くと言った様な事では全然、眼目が違うということになりましょうが。そこんところにです、あの神のおかげとか、神の大恩とかと言った様な事が、こう空々しいものになってくるんです。
剣道の修行をする人が、それでいうならば一つ一儲けさせてもらおうと言った様な事は考えんでしょうもん。剣道の道なら、剣の道を成道することのために修行するのです。そんなら信心させて頂く者の、信心修行もやはり信心がいよいよ上達することのために、の修行でなからなきゃならんのです。そこで信心が上達する、いうならば、報恩の心も厚うなる。神のおかげもいよいよ深く分からせてもらう。
その喜びと恩に報いるというそのことが、神の機感に叶うからおかげの方はもう、神様の方が下さると言う事になってこなきゃならんのです。今度の寒修行今までいうならば疎かにしておったところを、大事にしていくと言う事の修行と同時にです、今まで分からなかった、一段と信心を飛躍する。させて頂くことのために修行がなされる。そういうことのために工夫が、なされなければならない。その工夫もあれもこれもと言う事はいらん。ちょっと今までの信心に、ちょっとした工夫をこらすこと。
もうちょっとしたということにはもう、素晴らしいことがあるんです。夕べ御祈念の後に学院生がかえって来た。他の教会の方も一緒に来た。六人だからそれにそれで昨日は、少ししかお参りが夕べなかったけれども、家のもんだけで大体いっぱい、それであのそのちょっとした工夫ということを、話したことでした。もうご祈念が終わってから、ここに降りてまぁ話しました。
信心の修行というのが、お互いどういうふうですか。第一合楽は二食主義ですから、二食主義がなれたかどうか。金光様の先生って、三度三度のご飯食べんならんごたる、そんなに御広間が閑散としらんこっちゃ出来んて。もうご飯の食べる暇のなかくらいに、あの、一つおかげ頂かんならんからね。そしてまた修行に出たら、それこそ神様が下さる物で生活をしていかんならん。始めからそんなに豊富にあるということない。いうなら節米にもなるわけだ。
それでまぁ朝昼晩のまぁ務めを、だいたいいうなら合楽での、信心修行ちゃもう実にそのみやすい。そのみやすいからかえって一時のご祈念にはご無礼したり、晩のご祈念には出てもこんと言った様な事に、時々なってくるわけです。はぁその合間にずっと何かが、あるというならね、もう合楽での修行もそれだけなんです。だからたったそれだけのことだけれども、時間を切るようなことはない。
たったそれだけのことは、もう務めぬかせてもらうという、もう当然のことだけれども、当然のことが当然のこととして出来んようなことで、信心修行しとるといえるか。というわけなんです。だからならご祈念ならご祈念の時間になったら、その時間にきちっと、はりゃもう、お店ん方が忙しゅうて仕事が大事ちゅうなら、仕方がないけれども、それにかかっておるのだから。
時間に遅れるような事があっちゃならんじゃないか。ということをです、簡単なことだけれども、なら最近頂くように、信心の構えが出来んと、やはり出来んということです。まぁ時々は、もうご祈念もご無礼する。時々は時間も遅うなる。それでは神の機感にかのうた信心と言った様なことには、もうこれだけは、他んことは出来んけれども、間違いがないと言う様にです、神様のご信用がついてくるということはないです。だからそれはご祈念ならご祈念ということだけじゃありません。
自分がこれだ。修行させて頂いておる、信心をさせて頂いておるのだから、これだけのことはと、自分の心に、いうなら一つの誓いを立てたら、それが間違いなく、狂いなくすることが修行なんだ。それをただ思い立つことは修行じゃない。それが、それこそ行んごとでくるというじゃないですか。こりゃもうこの人ばっかりは、もうこんほんに感心なこっちゃ、あれ行んごたるちいうじゃない。
その簡単なことでも、いわゆるちょっとしたことでも、いうならば行んごと出来なければ、行にはならんです。どんなに素晴らしい上手にご祈念をさせて頂いても、それが自分の気分のよか時だけと言った様なこっちゃもう行にはならんです。ちょっとしたことでも、それをいうならば構えて構えを作ってね、そこにいうならば、大きな言葉でいうならば、そこに命をかけるのです。だから出来る。
そして考えてみると実に見易いことなんです。そのみやすいことすらも、それが出来たり出来なかったりで、行をしとるなんてん、信心修行しとるてんなんてんていうことはいえない。いうならば実意丁寧神信心、正確無比。あれもこれもとは出来んけれども、こと神様のことに限ってだけは、お広前で例えば修行させて、こりゃ合楽の修行生のことだけじゃありませんけれども、それが出来んごたることでは、修行しとるとはいえんじゃないかと。まぁいうような話を、夕べさせて頂いたんです。
それで私も大体もう夜のご祈念は、この頃もうでて来たり出てこなかったりで、私自身の話なんです。どうでもそのこの頃久富先生のお付き合いをせんならんもんですけん。そのお神酒がささるとね、もう前後不覚に眠ってしまうんです。そしてもう目が覚めた時には、9時やら10時やら。勿論そりゃ出来なかった時は私は必ず、もう夜どんなに夜中になっても、やっぱりこの羽織袴を着けてやっぱ出て来ます。いうならばお詫びに出てくるようなもんです。
だからお詫びに出だからもう、ほんとうにどうか本気でどうかいっちょもう、晩酌をせんで済むごたる風に、出来んだろうかというて、夕べ話したことでした。頂かんなら頂かんでんよかっちゃけれども、私が頂かなければ先生も頂き、けれどもまぁあんなに好きで好きで、昨日がちょうど先生75歳の誕生日だった。それでまぁあんな、まぁ生き生きとしたなら御用も出来ておるわけですから、何かこう、私はもう今夜から晩酌止めるなんてんちゅうならがっかりさっしゃろうごつしてからね。
なんとか工夫出来んもんだろうかと。いうて夕べそんな話もしたことでしたけれどもね。やはり工夫をしよるです。何とかそれが出来るおかげを頂きたい。それで出来ませんでしたからというて、なら夜中に出て来ても、それでまぁ済んだとは思わない。結局はお詫びです。そういうお詫びの信心からは、良いものは生まれてこない。本当に正確無比な信心が出来て、そのことが有り難いというて、始めて御礼の信心が出来る。
だからそのもう一つ前としてです、それが出来ることのための、願いの信心に立たせて頂いたら、いや最近願いに願ってね、というけれども、そういう信心を願うことが、第一番ではなかろうか。そういう正確な信心が出来るようにという願い。そこから構えが出来てくる、おかげを受けることが先ではなかろうか。もうぼちぼち神の機感にかなうた信心の、前提にあるということになります。
それが出来る時に神様の、神の機感にいわゆる神様のご信用が受けられるおかげ。そこから信心もいうならお詫びじゃない、いうならばお礼の信心。それはちょっとこれが務めだという風に思うと、簡単なことであっても時々には気を抜きたいような気がする。開放感が必要になって来る。だからそのそういう、気を抜かんで済むいうなら開放感、まぁ金光様の先生といや、盆もなからなきゃ正月もない。
だから時には気を抜け、息抜きをせにゃできんと、自分でいうのじゃなくて、そのことが、有り難うなっていくということがです、いよいよ恩に報いる心。いうならばあれもおかげ、これもおかげが分かる。神のおかげが分かる。神の大恩が分かれば、なるほど子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるということが分かるような気が致します。そういういやここにはっきりとそう仰っておられます。神のおかげを知らんから、おかげが互い違いになってくる。
神の大恩を知れば、子孫も続き身代もできというほどしの、しかも代勝りのおかげが受けられる、そういう徳を受けることのための信心。剣道の修行させてもらうとに、他の眼目があってはない。剣の道がいうなら上達することの為であるように、なら信心の修行も、やはり信心の道が一段と深く広く、分からせて頂くための修行でなからにゃならん。そういう心掛けでね、明日からの寒修行に一つ取り組みたいと思います。
どうぞ。